・KONTAKT PLAYERを落とした。フリーでこの音質のサンプラーとか凄すぎると思います。
とはいいつつも、今日はまったく作業がはかどらなかった。
作っては消し、作っては消し。
ミュージシャンはそんなこと気にせずにとりあえず手を動かし動かし作っていくんだろうけれど、
俺は別にミュージシャン気質ではないので、作ってて自分のサウンドじゃないと思ったらすぐ消してしまう。
そうして何も作れず一日が終わる。まぁ、よくあることですね。
スピーカーは65daysofstaticをずっとリピートしている。
こういうのを作ろうと思って今日は作業開始したんだけど、まったくなんという体たらくだ。
「こういうのを作ろう」と思うところからスタートするのはいいけど、同化してしまったらダメだよなあ。
あまりにも完成されすぎたサウンドからは模倣にしか繋がらないことが分かった。
65daysをパクるのではなく、mogwaiあたりをパクる気持ちで始めればよかったな。
・北欧パンの「ようかんちゃん」を食べた。うまかった。

しかしこのようかんちゃん。マーケティング的な観点から見ても非常に成功していると思う。
まずネーミングが分かりやすく、かつインパクトがある。
さらに生四角形であり、角ばっていることが、本物の羊羹を彷彿とさせて非常に小気味いい。
羊羹の持つ美しさを損なわず、上手い具合にパンと融合させたといえよう。
かの夏目漱石先生も小説「草枕」において「余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が
好だ。」
と箴言されるほどに、なるほど羊羹は日本人の美的感覚にとてもマッチしているものなのだろう。
しかし「ようかんちゃん」の中にはあんことともに生クリームが敷き詰められており、
一口かじってしまえば、ぐちゃり。最早その美しさは損なわれてしまう。顔を出すのは、ばばあの白塗りである。
ゆえにその外観こそ美しい「ようかんちゃん」であるが、中は生クリームとあんこという、
俗物どもの薄汚い欲望が点在している。この点をわきまえず、非常に俺は、後悔した。
まったく、一口で食ってしまえばよかったのである。
朝ぼらけで食いかけの断面を見るから憂鬱になるのである。
が、一口で食う、といえども、そこに落とし穴があった。
「ようかんちゃん」は一口で食うには大きすぎるサイズなのだ。
だからといって、何口も費やすほどには大きくなく、これは実に中途半端。内股膏薬。
これでは、「ようかんちゃん(素直クール)」を美しいままに食べることが出来ないではないか。
まぁどうでもいいんだけどね。
で、結論から申し上げると、
「ようかんちゃん」はあれやこれやとニーズを詰め込みすぎたのが敗因である。
人が人生の岐路に立たされ、選択を迫られたときに、そこで何かを捨てなければいけないのと同じように、
「ようかんちゃん」が永久不変の商品となり得るためには、満足感だの、
量だのといった俗っぽさを捨てる必要があったのだ。
いや、この際だからもう言ってしまおう。
俺は菓子パンなんぞ美しくないと思う。
なんだあのチョコレートにまみれたパンは、なんだあのチョコチップは。
馬鹿にしているのか。
ああいったものを平気で大の男が食えると思っているのか。
そんな思想を持って生きてきた俺、眼前に菓子パンが現れるたび一刀のもとに切り伏せていた俺が、
今朝、「ようかんちゃん」と出会ったときの衝撃は大きかった。
尋常ではなかったのである。
-恋。
そこで、初めて気づいた。
俺は菓子パンを食べることそのものに、ひどく羞恥と怒りを覚えていたのだが、
実はその内心とは裏腹に、
己の中に、菓子パンを愛でながらひと思いにがぶりとやりたい、という想いが芽生えて…
あぁ、ありがとう!「ようかんちゃん」!
これほどまでに美しい貴女ならば、俺は自らの面子を損なうことなく、
積年のわだかまりを打ち消すことができよう。
ありがとう!「ようかんちゃん」!
喜びもつかの間、食べかけの断面からばばあの白塗りが顔を出し、声を挙げて高笑いした。
俺は弄ばれていたのだな、とその時初めて気がついた。
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